日清戦争 絵 意味

(日本兵による一斉射撃の様子 出典:Wikipedia) 日清戦争とは、1894年~1895年にかけて、朝鮮半島の支配権をめぐって日本と清国が戦った戦争です。 そのため、主な戦場は朝鮮半島、戦争の後半には清国領土で戦うことになります。 勝敗の結果は、日本の圧勝。一方的な展開で日本軍は清国を撃破しました。 その後、清とは講和条約である下関条約を結び、日本は多額の賠償金を手に入れました。 世界で新型肺炎が猛威をふるう中、先日、ある映像がテレビに映し出された。新型肺炎の中心地となる中国・武漢。夜の町の様子である。なんでも、都市封鎖解除後の一番乗りだという。現地で取材していたのは、私と同じ年頃の女性記者だ。発生源と疑わしきあの市場へもガンガン歩いて、カバーの隙間から中の様子をうかがう。見ている私までもが緊張した。本当に、その勇ましさに脱帽する。, 報道という仕事に就いたならば、我がコトよりも優先すべき事柄が幾つも増える。今回の新型肺炎なら、感染するかもしれない不安や恐怖。そんなネガティブな感情よりも、人々の知る権利を充足させ、取材を優先する。ある種の「使命」が、彼らにはあるのだろう。だから、不安や恐怖に立ち向かえるのかもしれない。, さて、危険な地域は、何も病気だけにとどまらない。例えば、自然災害や戦争。様々な危険と隣り合わせの場所で、決死の報道を行う。きっと、報道記者はマッチョで勇敢、そして、類まれなる崇高な精神を持つ専門職なのだと思ってしまう。, しかし、そんな予想を大きく覆してくれるのが、日清戦争の従軍記者である。 前述の通り、日清戦争は朝鮮半島に関する戦いです。 当然、朝鮮の政治事情も大きく絡んでいます。 当時の朝鮮半島は、宗主国である清の弱体化などによって、非常に混沌としていました。 「今までも清を頼りにしてきたんだから、これからもいざというときは清に頼ればいい」とする守旧派 近代日本人の肖像に掲載されている「国木田独歩」の写真。彼は、小説家とジャーナリストの2つの分野で登録されている, 明治27(1894)年に徳富蘇峰(とくとみそほう)が主催する「国民新聞社」に入社。日清戦争の決定的な転換点となる威海衛(いかいえい)の戦いに、海軍の従軍記者として派遣されるのである。実際に日本海軍の軍艦に乗船し、戦況の報告を綴る日々。この内容は、日本に残っていた弟、収二(同じく新聞記者)への手紙という体裁で紙面に発表。その名も『愛弟通信(あいていつうしん)』。冒頭部分だけご紹介しよう。, 「15サンチ敵弾の破丸一片を文鎮となして、西京丸の船房に此文を草す。三十六灘の潮路、今已(すで)に其半(そのなかば)を過ぎぬ。指してゆく先何處(いずこ)ぞや。知らず。知らずと雖も問ひもせず。微笑一番、窃(ひそ)かにうなずくところあれば也。いざいざ、心静かに昨夜よりの事、一つ二つを筆にまかして誌(しる)し、己(おの)が海事通信の端をこゝに開かんとす」 はて?国木田独歩って……。どこかで聞いた名前だと思われる方が大半だろう。教科書には一般的に「小説家」として登場する人物だ。彼だけではない。あろうことか、芸術界でいうところのオールスターズの面々が、戦地へと渡っていった。, 今回は、そんな彼らにスポットを当てたい。それでは、早速、日清戦争の従軍記者となった人々を紹介していこう。, 従軍記者とは、どのようなイメージだろうか。同じミリタリーに身を包み、危険を顧みず進む感じ? 日清・日露戦争は日本にとってはアジアに進出する大きなチャンス、そして敗戦国である中国・ロシアは帝国時代に終わりを告げるという意味で大きな転機となりました。しかし勝者であるはずの日本も決して順風満帆ではなく、内部には政治の陰謀や近代化への矛盾が生まれていたのです。 主」「ぱつち坊主」と呼んでいたが、そこに侮蔑的な意味合いは含まれていなかった。そ れが、江戸中期以降に少しずつ変化し、アヘン戦争などで中国が列強の前に敗退すると、 知識人の中に中国を反面教師とする中国観が成立してくる。そして、明治に入るとすぐに 「チヤンチャン坊主」と ジョルジュ・ビゴーによる当時の風刺画(1887年) 日本と中国(清)が互いに釣って捕らえようとしている魚(朝鮮)をロシアも狙っている。/wikipediaより引用 日清戦争は1894年7月25日に端を発する日本国と清国の間における大規模な軍事衝突です。 当初は朝鮮半島における反乱鎮圧のために出兵した2国でしたが、両軍とも到着時には朝鮮の自力で平定されており、2国の軍隊が対面している内に開戦の機運が高まります。半 … 本気で二度見してしまった。集団の先頭にいる2人は、真面目に戦争の様子を写生している。何度見ても、あれだ。首からかけるやつ。小学校のときに野外で行った写生大会を思い出す。, それにしても、まあまあな緩さである。まず、いかんせん、従軍記者の格好がお洒落過ぎるだろう。当初の想像では、汗臭く、泥臭く。兵士の興味をひかずに、ひっそりと戦場の様子をレポートするイメージ。それなのに、真ん中の彼は、水玉のスカーフを巻いたハットときたもんだ。その後ろには、帽子にさした鳥の羽根みたいなものが風に吹かれてパタパタとなっている彼。全身、小綺麗なスーツを着て「諸新聞社特派員」という肩書だ。指さして興奮している様子。, しかし、これには事情がある。 明治27(1894)年に勃発し、開国後、初めての対外的な戦争となった「日清戦争」。このとき、華々しく記者として日本を飛び出したのは、じつに意外な面々であった。, 冒頭の写真の人物もそのうちの一人。 とにかく、あわや戦争に巻き込まれるくらいの切迫感を想像する。汗臭く、泥臭く。死をも覚悟して現地で取材する、ジャーナリズムの塊のような彼ら。, それでは、実際に、日清戦争に関する1枚の絵を見て頂こう。 えっ?写生大会? 日清戦争前とその結果を背景に日本が列強 と肩を並べ、しかも追い越して列強を小さく ... の差は何を意味しているのか、ロシアはどう して両手を後ろにしているのか、回りで見て いる人たちはどんな表情か、幕の上から覗い ている人はどこの国の人か、どんな思いで見 ているのか、など。� 日清戦争は、その意味で以後五〇年にわたる日本帝国主義の中国侵略戦争の発端をなすものであり、一九四五年の日本帝国主義敗北にいたる日中五〇年戦争の第一次戦として位置づけられるべきである。 なにもしていないように装い、実は第三者は虎視眈々(こしたんたん)と隙をねらっていた。そんなことも、あるかもしれませんね。 ちなみに、「漁父の利」と書かれる場合もあります。 では、次はいよいよ語源・由来です! 早速見てみましょう。 朝鮮をめぐり対峙する日本と清国は、やがて日清戦争(1894年~1895年)へ突入することになった。一方、その後、朝鮮半島への南下の機会を伺っていたロシアと、日清戦争に勝利した日本との間で日露戦争(1904年~1905年)が発生した。 ビゴーの風刺画についてです。 中国分割(ピザが真ん中にあり、中国が驚いている)の絵の右側の女の人はどこの国ですか?また、この絵の意味を教えてください。 Android. 日清戦争の講和条約(下関条約)による日本の遼東半島領有に反対する露・独・仏3国の干渉。 1895年4月,3国は日本の遼東半島領有は朝鮮 独立を有名無実にするとして東洋艦隊の武力を背景に清国への返還を要求。 5月,日本は要求に屈して返還を決定,3国に通告。 CLUBと書かれた部屋に下駄を履いた日本人が入ってくる様子。 この風刺画は1894年に日清戦争に勝利した日本がイギリスと日英同盟を結んだ頃に書かれた風刺画です。 一見してみるとなんともないように見えますが、ヨーロッパの列強諸国(右)の表情は呆然そのもの。まぁ、ヨーロッパしか列強諸国がなかったこの当時アジアの日本が入ってくるのは違和感極まりないことだったのでしょうね。 個人的には一番左のオーストリアの表情が好きです。 ちなみに日本人の影に隠れているのはイギリスで、なんか … そもそも、当時の新聞は急速な拡大方向へと大きく舵を切らざるを得なかった。というのも、新政府樹立、文明開化と次々と新たな波が押し寄せ、至る所で「言論の自由」が叫ばれた世相だからだ。新聞各社は刺激的な見出しや数々のスクープで、読者獲得にしのぎを削っていたのだ。, そんな矢先の「戦争」である。言い方は悪いが、またとない大きなネタが転がってきたのだ。新聞各社は当然、色めき立った。国民に対していかに鮮烈な記事が提供できるか。その力の入れようは半端ないほど。ただ、戸惑いもある。なんせ、初の戦争となるため、従軍記者を派遣した経験がなかったのだ。どのような人材が適任なのか、手探りでやるしかない。, まず、軍との関係を考え、コネクションの有無が重視された。現場の指揮官クラスにツテがある人物。自ずと現場の情報は指揮官に集約されるため、張り付くことができれば特ダネもスクープ可能だ。とはいっても、なかなか、そんな条件該当者はゴロゴロいるものではない。, そこで、次に考え出されたのが、「専門技術」を持った人物。つまり、写生のプロ、文筆業のプロ。当時、芸術界にいた若き日の重鎮たち、「小説家」や「画家」に白羽の矢が立ったのである。, まず、誤解されがちなのは、この方。国木田独歩(くにきだどっぽ)である。代表作の浪漫的短編集『武蔵野』など、小説家としての肩書で説明されることが多い。しかし、じつはジャーナリストが彼の出発点である。 朝鮮では、開国に伴う改革の負担などは、農民に押し付けられた。税は重税になり、農民は貧困になった。このような状況によって、朝鮮の政権や開国への不満が農民たちに高まり、大規模な反乱が1894年に起きた。 減税や、腐敗した役人の追放や、日本をふくむ外国の排除を求める反乱である、甲午農民戦争(こうご のうみん せんそう)が1894年に起きたのである。 この反乱を起こした農民たちの多くが、「東学」という宗教団体を信じていたので、この反乱を、東学党の乱(とうがくとうの らん… (風刺画「列強国による中国分割」 出典:Wikipedia) 中国分割とは、1894年(明治27年)の日清戦争において清が日本に敗れて以降、日本やヨーロッパの国々による中国の領土や利益を分割&植民地化した一連の流れのことを指します。 清は1840年に起こったアヘン戦争から徐々に弱体化が進んでいきましたが、日清において新興国日本に敗れたことによって列強国(大国のこと)の介入を招く結果となりました。 国木田独歩著『弟愛通信』より一部抜粋, 当時はまだ「哲夫」と名乗っていた国木田独歩。しかし、この戦況報告のルポタージュによって、一躍ジャーナリストとして歩みだすことに。帰国後は詩や小説を発表し、自然主義の先駆けとなるのであった。, 一方で、対照的なのがこちらの方。俳人・歌人の「正岡子規(まさおかしき)」である。 絵」,鹿鳴館外交,陸奥宗光の交 渉,領事裁判権の撤廃 2時間目 日清戦争は,どのようなせんそ うだったのだろう? ・電子黒板に資料を写し,前時の復習をする ・ワークシートを用い,学習前と学習後,風刺画 「漁夫の利」にふきだしをつける 画家でもあり貴族院議員の政治家でもあった「黒田清輝」。裸体画を巡る問題を巻き起こしたことでも有名, じつは、黒田清輝の従軍記者としての派遣は異色。というのも、日本ではなく、フランスの新聞社から派遣されたからだ。ちょうど10年もの間、フランスに留学していたこともあり、フランス語はペラペラ。そんな経歴が役に立ったのだろう。, 黒田清輝は明治26(1893)年に日本に帰国。そして翌年に日清戦争勃発。フランスは、ドイツやロシアと共に、この日清戦争に大いに関心があった。眠れる獅子として有名な清国と日本が戦うワケなのだから。戦況を逐次把握し、いざとなれば口を挟む気でいたのだろう。実際に、フランスは「三国干渉」の当事者となることに。これも、黒田清輝が戦場画家として活躍した結果なのかもしれない。, 次に、同じく洋画家の「浅井忠(あさいちゅう)」。国の重要文化財である「春畝(しゅんぽ)」などが有名だ。のどかな早春の麦畑を描いた作品である。 その名も、国木田独歩(くにきだどっぽ)。 「大日本帝国万々歳成歓衝撃我軍大勝之図」(大英図書館提供), 大英図書館所蔵の作品である。タイトルは『大日本帝国万々歳成歓衝撃我軍大勝之図』。なんとも仰々しいネーミング。まあ、名前はさておき、こちら右下の部分をよく見て頂きたい。少し拡大したものだと、詳細な情報が確認できる。 © SHOGAKUKAN INC. 2017-2020 ALL RIGHTS RESERVED. 日露戦争(にちろせんそう)とは。意味や解説、類語。明治37年(1904)から翌年にかけて、満州(中国東北部)・朝鮮の支配権をめぐって日本とロシアとの間で行われた戦争。日本は旅順攻撃・奉天の会戦・日本海海戦などで勝利を収めたが、戦争遂行能力が限界に達し、ロシアも革命勃発な … じつは、遼東半島に到着の2日後、なんと下関条約が調印。戦争は終わったのだ。そのため、苦労して渡海したものの、実際の記者としての活動はできなかったのだとか。さらに、正岡子規は、帰国途中の船内で喀血(かっけつ)。もともと結核を患ってはいたが、この旅路で大きく病状が悪化し一時は重体に。その後、療養するも、床に伏す日が多くなる生活を余儀なくされるのであった。結果的に、以降の彼の人生は、病魔と闘いながらの創作活動となる。ある意味、彼も大きく人生が変わった一人だろう。, さて、「百聞は一見にしかず」といわれる通り、言葉だけでは足りない。報道には、まさしく視覚を満足させる「絵」が必要である。こうして画家たちも、日清戦争に駆り出され活躍した。, まずは、こちらの方から。日本近代洋画の巨匠と呼ばれた黒田清輝(くろだせいき)。うちわを持った女性(のちの夫人)が湖のほとりで涼んでいる様子を描いた『湖畔』。鴨川をバックに京都の舞妓を描いた『舞妓』などが代表作である。共に国の重要文化財となっている作品だ。 絵だって負けてられない!黒田清輝に浅井忠? さて、「百聞は一見にしかず」といわれる通り、言葉だけでは足りない。報道には、まさしく視覚を満足させる「絵」が必要である。こうして画家たちも、日清戦争に駆り出され活躍した。 日清戦争では旅団長として旅順を占領した。日露戦争では司令長官として日本軍の勝利に貢献した。戦後、政府の要職を歴任し、従二位に叙せられ、伯爵を授けられた。尊王の思いが厚く、大正元年9月13日明治天皇の大葬の日に静子夫人とともに殉死した。享年64歳。 若き日の俳人・歌人の「正岡子規」, 意外といえば意外だ。限られた字数で表現する俳句なのに?と疑問に思うだろう。どうやら、言葉に関係する仕事であれば、言い方は悪いがなんでもよかったようだ。新聞「日本」の記者として、開戦後8カ月経過した頃に派遣。近衛師団付きの従軍記者だったという。, しかし、間が悪い。その一言に尽きる。 日清戦争の朝鮮問題で風刺画の意味がわからず困っています。日本と清が魚釣り<この魚は朝鮮>をしています。それを横取りしようとロシアが待ち構えてます。漁夫の利なのですが何をどう例えているのかあまり理解できません。朝鮮の独立? 日清戦争(にっしんせんそう)は、明治時代に 日本が初めて経験した外国との戦争です。 日清戦争とは何か? どんな戦争だったのか?などなど 日清戦争について この記事ではなるべくわかりやすく 簡単な言葉で解説していきます。 日清戦争とは? 日清戦争とは 1894(明治27)年7月25日から この写真はどういう意味か教えてください。日清戦争と関係している? 絵画. <⑥日清戦争の二つのとらえ方> ここで、日清戦争とはどんな戦争だったのかもう一度考えてみようと思います。 2つの考え方があります。 一つは、「狭い意味」の日清戦争です。戦いが始まった1894年7月から講和条約が締結された95年の4月まで。 旅順口で掠奪をする日本軍?でもちょっと何かおかしいみたいです… 【写真28枚】「英国観戦艦隊が見た日清戦争」英国軍人の眼に日本軍は規律正しく、清軍はだらしなく映ったようです。19枚目は旅順虐殺事件の様子らしいのですが、掠奪者の身なりは中国人のようです。 日清戦争 日本軍歩兵の一斉射撃 戦争:明治二十七八年戦役 日清戦争 : 年月日:1894年7月25日 – 1895年11月30日: 場所:朝鮮半島・遼東半島・満州最南部・山東半島東端・黄海: 結果:大日本帝国の勝利、下関条約締結 : 交戦勢力 大日本帝国: 清. 日清戦争に勝利した日本は、下関条約を清との間に結び、2億両(約3億1000万円・当時の国家予算の2倍以上)の賠償金や遼東半島、台湾などの割譲を得ました。 問題となったのが、この中の遼東半島と … 「日清戦争はなぜ起こったのか?」から見てきたことにより、日清戦争発生の流れが見えたと思う。そして、その終わりは戦争の終結ではなかった。それこそが、この後の日本と世界の関係を象徴する本質といえる。まとめてみたので是非ご覧を。 指導者・指揮官 a「日清戦争の結果、列強が清を切り取りしていましたが、それに乗り遅れたのがアメリカでした。そこで、アメリカは『清との貿易を独占するのはやめて平等にしようよ! ことが大切であることに気付き,事象の意味について考えを練り上げることができるようになりつつある。 本小単元は,日本が国力を高め,西欧諸外国に追いつき追い越そうとした日本の政策や,その中心となっ た人物について,調べることを通して,日本が条約改正を中心として,様々な政� 東アジアのなかで非常に複雑な過程を歩んできた日本、中国、朝鮮の三国。1894年から1895年にかけて、それぞれが思惑をもって臨んだのが「日清戦争」です。この記事では、世界をも揺るがした日本の勝利と、清・朝鮮の滅亡を導いた戦いについて、原因・経緯・結果などをわかりやすく解説し、おすすめの関連本もあわせてご紹介していきます。, 1868年に明治政府が誕生して以来、日本は近代化への道をひたすら突き進んでいました。当時の東アジアは、清(中国)がアヘン戦争や北京条約で欧米列強に次々と土地を割譲され、それまで長い間中国を中心として築かれていた国際体制が崩壊し、ベトナムやモンゴルといった中国周辺諸国が次々と清から独立していきました。, その中でただ一国、朝鮮(李氏朝鮮)だけは依然として中国を宗主国として服属する姿勢を維持していました。その挑戦でもすでに開国派と鎖国派の争いが起きており、通商を求めたフランス・アメリカ船を撃退したという事実から朝鮮国内では鎖国体制を維持するという意見がより主流でした。, 日本は列強が注目する清に接近、1871年(明治4年)には清との間に日清修好条規を締結します。これは日本が外国と果たした最初の対等条約であり、日本は続いて朝鮮とも国交を結びたかったのですが、朝鮮は日本の態度が気に食わずこれを拒否します。, 幕末以来列強の侵略の恐ろしさを熟知していた日本は、富国強兵のスローガンのもとで国内の発展に力を注ぐ一方で領土の拡大を画策、結果として琉球王国(沖縄)を日本の国土に編入することに成功(琉球処分)。現在の日本国の領土の基礎はこの時に出来上がったのです。, 琉球もまた元は中国の属国扱いでしたが、日本に帰属したことによって清は朝鮮以外の全ての属国を失いました。こうして日本は朝鮮を清から切り離して独立させることを画策、清は属国としての体制を維持させることを主張。ここに日本と清が朝鮮をめぐる対立構造が出来上がってくるのです。, 日本は1875年(明治8年)に開国を渋る朝鮮に対し、江華島にて威嚇砲撃を行い、開国を迫ります。これにより実際に死者が出たことから、朝鮮は日本への態度を軟化せざるを得ず、翌年には日本との間に日朝修好条規を締結し、「朝鮮は独立国であり、清に服属する必要はない」という項目を認めさせました。, 朝鮮国内では清派(保守派)と日本派(開国派)に分かれて内部抗争が続き、1884年(明治17年)には日本派の金玉均(キムオッキュン)が日本の支持を受けてクーデターを起こします。しかしこれは清が朝鮮王朝を支援したためすぐに鎮圧。日本と清はこの時に天津条約を締結、「朝鮮に介入する際にはお互い了承を得た上で行動しよう」という約束が出来上がりました。, 日本は明治政府が成立した頃から朝鮮に対し、影響をおよぼしたいと考えていました。それは日本だけでなく、北の大国・ロシアがアジア進出を狙っていたからで、放っておいたらロシアが朝鮮を侵略し最終的に日本が攻められる恐れがあったのです。, そこで日本は朝鮮を清の属国である今の状態から独立国として主権を主張させ、清から切り離す必要があったのです。日本としては本来清・朝鮮を力攻めする気はなかったのですが、両国が頑迷に協力を拒否していたことから、欧米に対抗するという体制の進展が遅れていました。, さらに清は日本を仮想敵国としてフランスから艦隊を購入、北洋艦隊と名づけて日本の長崎に威嚇砲撃、そして侵略行為を続けました。そんな緊迫した状況の中、遂に決定的な事件が起こったのです。, 1894年(明治27年)、朝鮮で王朝政治に不満を持っていた農民達による甲午農民戦争が勃発します。長く混乱が続いていた朝鮮ですが、とうとう国民の不満が爆発し、鎖国を頑迷に守ってきた朝鮮は清と日本の介入を許すことになるのです。, 甲午農民戦争の反乱を受けて、朝鮮王朝を実際に支配していた皇后閔氏(びんし)は清に応援を要請します。こうして清から袁世凱によって兵が派遣されます。, この行為は天津条約違反だったので日本は清・朝鮮双方を批判、しかし頑迷に旧来の秩序体制を維持しようとする両国は日本の言うことをまったく相手にしません。日本軍は遂に漢城(ソウル)に至り皇后に今一度開国を迫ります。皇后もこれには同意せざるを得ず、日本軍は朝鮮半島に駐留することとなり清軍を迎え撃つこととなりました。, かねてから北洋艦隊の強さをこれでもかと日本に見せびらかしていた清ですが、実際に戦うと清軍は北洋艦隊の指揮官が敵前逃亡するような有様でした。というのも、当時清朝を支配していた西太后は政権維持のために浪費を繰り返しており、軍は維持費に事欠き装備は衰え訓練が怠られている状態でした。, 豊島沖海戦では指揮官が敵前逃亡した上で清軍の補給線をストップ、日本軍は続く陸戦でも清軍指揮官の敵前逃亡によって勝利を収めます。しかし平壌に到着したところで日本軍の装備は限界を迎え、一時戦線は停滞せざるを得ませんでした。平壌は清軍にとっては命綱の要塞であり、ガトリング砲などの万全の装備を整えていました。日本とて決して何もかも順調ではありません。, ところが、装備万端で余裕綽々のはずの平壌城から突如白旗が上がります。何と平壌城を指揮していた葉志超が自分の命欲しさに降伏してしまうのです。清朝側もこれは想定外でした。日本軍は引き続き平壌救援のために派遣されてきた艦隊を黄海で撃破、この時も清側の指揮官は我先に撤退してしまい、北洋艦隊の足並みは終始乱れっぱなしでした。, 特に、メンテナンス不足だった北洋艦隊は自分が撃った砲弾によって自分の船が壊れるという有様でした。清はこれによって欧米列強に加えさらに日本からの圧力にも怯えることになります。, 1894年10月、開戦からおよそ半年後にイタリアとイギリスの仲介によって清朝も遂に日本に講和交渉を持ちかけ、日本に対し負けを認めたのです。遼東半島では未だに戦争が続いていましたが、清の李鴻章が来日、これに対し日本は陸奥宗光を派遣し、下関で交渉が始まります。, 実は開戦当時から清朝は最小限の被害で抑えるために講和の使者を派遣していましたが、日本はこれをことごとく拒否していました。使者程度では相手にしていなかった日本も清の全権大使である李鴻章が自ら来たことでいよいよ講和に応じました。日本は清に対し強気に出るチャンスを伺っていたのです。, 講和条約の内容は1.朝鮮独立の承認、2.遼東半島、台湾、澎湖諸島の割譲、3.清が日本に賠償金2億テールを支払う、4.日清通商航海条約の締結でした。, 朝鮮半島の独立および遼東半島、台湾、澎湖諸島を獲得したことで、日本は世界に近代国家として認められ始めるのです。日清通商航海条約はかつて江戸幕府がアメリカと結んでいた不平等条約と同じような内容で、日本は中国に対し優位な立場で行動できるようになります。, 甲午農民戦争の勃発の1894年4月から李鴻章来日が1895年3月の1年間で、日本と清の国際的立ち位置は逆転してしまいました。, 賠償金の2億テールは、現在でいうと3億円以上。しかしこれらの資金はほとんど軍事費に充てられ、日本はさらに領土拡大へと突き進んでいくのです。, 朝鮮にまで日本の勢力がおよんだことで、フランス・ドイツ・ロシアは日本に対し遼東半島を清に返還するように勧告を突きつけます(三国干渉)。日本としては獲得した遼東でイギリスの支援を受けて経済を発展させる予定でしたが、これを三国は面白く思わず、アメリカ・イギリス・イタリアの協力を取り付けたため、日本もやむなくこれに同意せざるを得ませんでした。, こうして明治政府はこの時の悔しさを忘れないために臥薪嘗胆をスローガンとし、ロシアを仮想敵国とし軍事拡大を進めていき、10年後には日露戦争が勃発するのです。, 本書は、そうした近代化の流れを僅か258ページという短さでありながら一気に振り返ることができる一冊です。, 反面、扱っている範囲は割と広く本書をスタートにさらに専門分野を掘り下げていくには非常に有効です。概説書としては良質で著者が極力主観を取り除いて筆を進めていくことから、日清・日露戦争に至るまでの全体像を把握する上では最良の一冊でしょう。, 本書は下関条約の際に外交官として直接交渉の場に立った陸奥宗光がその心中を吐露した実録で、韓国併合や下関条約といった近代日本の躍進の裏に隠された大日本帝国の独走と矛盾を陸奥独自の観点も交えて論じています。, 外務省の機密文書を使用していることから、陸奥の死後昭和4年まで非公開とされ続けた一級史料の注釈版です。本書は完全に陸奥個人がゼロから執筆したわけではなく、すでに完成された史料に手を加えたもので陸奥によって改変されている部分も見られまが、当時の外交状況を知るには欠かせない一冊です。, 若い頃に坂本龍馬の海援隊に加わり、海外留学を経験するなど広い見識を持っていた陸奥が、世界を手にしようとする欧米列強と前近代的な王朝政治を続ける中国・朝鮮をいかに見ていたかが非常によくわかります。, 「蹇蹇」とは『易経』から取った言葉で、国家に忠誠を尽くすという意味ですが、本書を落掌させて間もなく陸奥は亡くなります。彼が近代化する日本にいかに命を捧げたかがこの一冊で見通すことができるでしょう。, 日本史の中での日清戦争は重要な事件であるにも関わらず、東郷ターンなどの「伝説」によって脚色された英雄譚である日露戦争とは違い、外交交渉や国内の政治状況に振り回されてやや影が薄いように感じます。, アジアに残った大帝国・清とそれに最後まで付き従っていた朝鮮、この二国が日清戦争までに歩んでいった王朝の最後の灯火が本作のメインテーマです。「近代」という大きな壁を乗り越えていった日本との対比も目が離せません。, 本書では、日清戦争は長く過ぎた過程によって生みだされた結末に過ぎません。しかし、前近代と近代の狭間にいて前進できずにいた両国と近代化をひた進んでいった日本の対比は非常に濃厚で、近年中国史学会でも非常にホットな話題である「中国と日本の近代化の差は何だったのか」というテーマの淵源を考えるにはもってこいの一冊です。, 小説でありながら歴史を俯瞰した陳舜臣のダイナミックさと読みの深さは本作でも健在で、我々一般人が学ぶ日本史はいかに薄いものであるかを思い知らされます。, アヘン戦争をきっかけに、中国は2000年以上に渡って守ってきた宗主国の立場を切り崩されていきます。それは中国の王朝支配が遂に終わりを告げる瞬間だったのです。, アジア・太平洋賞特別賞、樫山純三賞を受賞した2017年度最高の近代中国史研究、王朝政治から近代国家に向かう中で変動を続ける中国の対外観念と、現代に直接繋がる国の領土問題の淵源について知ることが出来る珠玉の専門書です。, 日露戦争はその規模の大きさから通称第0次世界大戦と言われますが、中国という非常に長い歴史と権威の象徴である国が崩壊する日清戦争は、アジアの歴史の中ではそれに匹敵する大きな事件でした。, 本書は中国史という枠組みから日清戦争ほか現代に繋がる近代中国の姿を洗い出した一冊です。, 本書は、これまで当たり前・常識としてそれほど振り返られなかった清朝滅亡までの清・朝鮮の二国の宗主国ー朝貢国という関係についてさらに1歩深入りし、当時の東アジアの長い歴史と伝統の中に潜んでいた矛盾を浮き彫りにします。, 日清戦争の鍵となった朝鮮について、三国それぞれがまったく異なる見解を持ちいつ戦争が勃発してもおかしくない状態だったことは、案外それほど注目されていない事実でしょう。, 著者はロシア語や英語といった海外の文献にもあたり、膨大な史料の中から大きな歴史のうねりを解き明かしていきます。日清戦争の世界史における位置づけはこの一冊で全て見通せるといっても過言ではありません。, いかがでしたでしょうか?欧米がアジアに進出する中で、日本・中国・朝鮮はそれぞれが国の維持を求めて競り合いを続けていました。日本の拡大政策と清の封建維持が衝突し、結果として日本はさらに軍事政策を押し進め中国、朝鮮は王朝政治の終わりへと進んでいくのです。, こうして見ると、アジアのなかでも中国式の国際秩序から早くに脱出した非常に特殊な国であることが見えてきますね。欧米が日本を認めていくようになる日清戦争前後の国際情勢は、現在も研究が非常に豊富で厚い分野です。現代の国際問題を理解するにはこの時代を理解する必要があるのです。, ホンシェルジュはamazon.co.jpを宣伝しリンクすることによってサイトが紹介料を獲得できる手段を提供することを目的に設定されたアフィリエイト宣伝プログラムである、Amazonアソシエイト・プログラムの参加者です。, 成田凌の人気の理由を出演作品から紐解く!実写化した映画、テレビドラマの原作の魅力も紹介. 日清戦争で得た領土を、ロシアなどの三国干渉で返還した時、「復讐の日まで我慢しよう」という意味で、「臥薪嘗胆」のスローガンが叫ばれました。 例文の[わんぱく時代]では、日露戦争のことを「十年臥薪嘗胆の戦争」と表現しています。つまり、ロシアに対する復讐の戦争だということで 私たちにも、そんな価値観のアップデートが、今まさに起ころうとしている。誰もが予測しなかった新型肺炎の世界的蔓延。これまでの常識や慣例がことごとく通じない。だからこそ、自分でも気付かなかった「真の自分」が顔を出すことも。, 不要不急の外出自粛もあって、家にいることが増えることも。それこそ、考え方をぐるりと転換するときだ。, 参考文献 『教科書には載っていない!明治の日本』 熊谷充晃著 彩図社 2018年7月, 生粋の京都人。生まれも育ちも京都で、大学時に未生流の華道師範代を取得。教育業界を飛び出し2年半、北海道(札幌から車で4時間、冬は-20度)で優游涵泳の境地を楽しむ。その反動で、現在は北陸で馬車馬の如く執筆する日々。法律、ビジネス系記事から日本文化まで。日本の歴史、なかでも戦国史、社寺参詣、職人インタビューが得意。北陸文化も発信中。. 日清戦争は日本と清国が争った戦争です。戦争をするということは、日本と清国の関係は決して良いとは言えないものでした。 というわけで、最初に日清戦争が起こるまでの日清両国の関係を簡単に確認しておきます。 こうして時系列で見てみると、日本と清国がその間にある国々(朝鮮・台湾・琉球王国)を巡って争い続けていることがわかると思います。 そして、壬午軍乱と甲申事変による朝鮮をめぐる日清の対立を通じて、 … 「大日本帝国万々歳成歓衝撃我軍大勝之図」の右下拡大図(大英図書館提供), ……。 『弟愛通信』 国木田独歩著 岩波書店 1990年3月  台湾民主国. 今日では時にこの絵は日清戦争と関係あるかのようにまで誤り伝えられて流布されている。 ビゴーが描いたのは1887年(明治20年)であり、日清戦争は1894年(明治27年)であって、この絵とはその時期も、また意味する所も含めて何ら関連性のないものである。 明治期を代表する洋画家「浅井忠」, 彼はイタリアの画家・ファンタネージに油彩画を学び、その独自の世界観を確立。そんな彼にどうして白羽の矢が立ったのか。なんでも画家修業のために、かつて中国を訪れたことがあるのだとか。この経歴が考慮され、戦場画家として派遣されることになったという。, こうしてみれば、明治時代の芸術家、知識人たちは、なにより好奇心が旺盛であった。中には、自ら「従軍記者」を志願した人もいたという。, それにしても、戦争という悲惨な現実の前で、彼らは一体何を悟ったというのだろうか。非常に気になるところである。それは、ただの「経験」として安易に分類されるものではない。自分の主軸、つまり、生き方や価値観そのものが変わった場合もある。, だからだろう。のちに、政治家となった者も多かったとか。日銀総裁・貴族院議員の深井英五もそのうちの一人。後に電通を創立した光永星郎など、事業を興す者も。バタフライエフェクトのように、「従軍記者としての自分」がその後の人生を大きく変えたといえる。, そして、現在。

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